8月30日、最終回。静岡県沼津市の臨済宗妙心寺派の金剛寺住職、水田真道氏に聞く。祝聖(しゅくせい)なるとは。托鉢をすること。禅門答。当たり前のことに気づくこと。「曇りなき眼で執着を捨てること」【田村政治チャンネル】
(8/30・最終回/金剛寺住職・水田真道氏)
- 概要
- 会場:静岡県沼津市・臨済宗妙心寺派「金剛寺」
- 話題:寺の沿革、臨済の修行、祝聖(しゅくせい)、托鉢、禅問答、公案、そして「曇りなき眼で執着を捨てる」実践
- Ⅰ. 金剛寺と歴史的背景
- 沿革
- 平安末期に起源。開山は文覚上人(真言宗の高僧)に連なる伝承
- のちに臨済色を強め、地域の禅寺として現在に至る
- 宮城・松島の修行道場
- 住職は松島の臨済修行道場で修行(瑞巌寺隣接の専門道場の趣旨)
- 臨済宗の朝廷との縁
- 花園天皇が臨済に帰依し、離宮を施入して妙心寺を建立
- 妙心寺は妙心寺派の本山となり、花園法皇は同派の大恩人
- Ⅱ. 臨済宗の位置づけ
- 「禅宗」は総称(臨済・曹洞・黄檗〈大本山は万福寺〉)
- 宗派間での対立は基本なし。伝来と師資相承の流れが重視
- Ⅲ. 修行の実際(“特別なことはしない”が要)
- 生活そのものを修行とする
- 鎌倉期の生活様式を踏襲:薪での煮炊き、徹底した掃除、厳密な作法
- 一日の時程・食事・所作が細部まで定められ、**自動化(無念無想)**へ導く
- 座禅と禅問答(公案)
- 師家から公案を与えられ、理屈では解けない問いに向き合う
例:「紐で富士山を縛れ」「遠方の炉の火を今消せ」
- 目的:概念・言葉・理屈への執着を外す(答えは“ある”が論理的推論では到達しない)
- 学ぶ場所ではなく捨てる場所
- これまでの知識・論理・習性を削ぎ落とし、赤子の心に立ち返る
- Ⅳ. 祝聖(しゅくせい)
- 意味・実践
- 毎月1日と15日に祈念(世界・日本の平和、そして「近天(きんてん)」=天皇の弥栄を祈る)
- 位置づけ
- Ⅴ. 托鉢(たくはつ)の核心
- 「ただいただく」「ただ出す」
- 感謝の“相手依存評価”を手放す(多寡や相手で心を動かさない)
- 大笠(編笠)の意味
- 施主の顔や金額を見ない/数えないための仕組み(執着の芽を摘む)
- 施す側の作法
- 「誰にいくら」は考えない。好き嫌い・見返りの心を捨てる
- Ⅵ. 「曇りなき眼」と執着のフィルター
- フィルターの自覚
- 先入観・利害・レッテルが現実認識を曇らせる
- 具体例:特定団体(家庭連合)に対する固定観念—住職自身も当初は囚われたが、外せたことで見え方が変化
- 実践の方向
- あるがままを見る訓練=知識の上塗りではなく取り除く努力
- 日常の悩みの多くはこのフィルターを外せば軽くなる
- Ⅶ. 象徴と哲学的展開
- 円相(えんそう)
- 生—老—死の循環を象徴。究極的には“得たものを外す”帰一の道
- 悟りの比喩
- 赤ん坊>動物>微生物>無生物へと“雑念の少なさ”で比較
→ 意志や概念が少ないほど「そのもの」であり、執着がない=悟りに近いという示唆
- Ⅷ. まとめ(キーフレーズ)
- 「当たり前のことに気づくこと」
- 「曇りなき眼で執着を捨てる」
- 祝聖・托鉢・座禅・公案といった型の“積み重ね”が心の自動運転を整え、フィルターを外す方向へ導く