朗読『”人さらい”からの脱出』#1~ 違法監禁に二年間耐え抜いた医師の証言~ナレータ:小嶌希晶【全国拉致監禁強制改宗被害者の会】

要約:朗読『”人さらい”からの脱出』#1 ~違法監禁に二年間耐え抜いた医師の証言~

1. 信仰との出会い

  • 語り手は1983年、大学3年の時に親友を通じて統一協会(家庭連合)と出会い、統一原理を学び始める。
  • 幼少期から天理教の影響を受け、宗教的理想と現実の矛盾に悩んでいたが、統一原理の「堕落論」に出会い、人生の葛藤や社会問題の根本原因を理解できたと感じた。
  • セミナー参加を経て信仰を深め、街頭伝道にも積極的に取り組むようになった。

2. 家族の反対と「脱会屋」との接触

  • 信仰活動に没頭する姿を見た友人が批判的情報を両親に送り、両親は不安を募らせる。
  • 両親は反統一協会の牧師・森山、そして「脱会屋」として知られる宮村孝氏の勉強会に参加。
  • そこでは元信者の証言を用いて「統一協会は犯罪集団」と親に信じ込ませ、拉致監禁を正当化する教育が行われた。
  • 母親は宮村氏に盲目的に従い、親族を巻き込み監禁計画を進めていった。

3. 拉致監禁の発生

  • 1992年6月13日、医師として勤務していた語り手は母に呼び出され、埼玉県の実家へ。
  • そこに集まっていた親戚20人に取り囲まれ、強引に車へ押し込まれる。
  • 助けを求めて大声で叫んだが、抵抗むなしく都内のマンションへ連行。
  • 部屋に押し込められ、ドアをチェーンで固定されて監禁状態となった。

4. 体験の意味

  • この回では「信仰に導かれた経緯」から「家族の不安と脱会屋による誘導」、そして「実際の拉致監禁」の瞬間までが描かれている。
  • 被害者本人が後に証言・著書で公表した内容をもとに朗読されており、宗教的信念を持つ人間がどのように違法監禁に巻き込まれたかを具体的に示している。

まとめ
この朗読は、統一協会信者だった一人の医師が、家族と脱会屋によって拉致監禁され、2年間にわたり監禁生活を強いられた経緯を証言するもの。信仰の始まりから家族の反発、そして暴力的な監禁に至る過程を生々しく描いており、日本における「拉致監禁・脱会問題」の深刻さを訴える証言記録として位置づけられている。


朗読『”人さらい”からの脱出』#1~ 違法監禁に二年間耐え抜いた医師の証言~ナレータ:小嶌希晶 – YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Q4Jn6xROnFE


(02:23) 15ヶ月間の換金生活 1統一協会やの入進 1983年9月5日当時立大学3年生で あった私は親友のM君の紹介で統一協会の 人たちと出会った。彼らは宇都宮大学の 学生3名と看護学生の1名であったが私は その彼らを通して統一原理を学ぶことと なった。私の家計は早祖父の台から天理教 の進仰を持っており、私も幼い頃風を引い たり病気になったりした時には祖父から 天理教で言うお授漬けという癒しの技を 受けてよく治療してもらったことを覚えて いる。また私は両親を通じて天理教の教え にも触れ時には両親と共に天理教のお祈り のお勤務めもした。権利教には陽気暮らし と言って神も喜び人も喜ぶという教えが あるけれども現実には戦争我虐殺人 強盗と神も人も喜ぶことのできない不幸な
(03:33) 事件が至るところで起こっている。私は 中学生の頃に宗教的理想とこうした現実と のギャップ、さらには生に関する自分自身 のうなる葛藤について随分と考えさせられ たところが統一原理を学んでみてとりわけ 人間の自真を解き明かしている堕落論を 学ぶことによって人間思な関係が写真の 原因となりそこから戦争などの社会の矛盾 も自分自身のうなる葛藤も起こってきて いることを知っがその回答を得た時の衝撃 を今でもはっきりと覚えている。 しかながら当時自治以来は田舎の全性の 大学という狭い社会だったので友人たち 先輩、大学教授が統一原理を学び続ける ことに反対してきた。そのような反対にも 関わらず統一協会に対する単なる風では なく、自分自身の目で真実を確かめてみ たいと思った私は統一原理を学ぶための4 日間のセミナーに参加した。4日間の セミナーで学んだ統一原理の創像原理は私
(04:40) に明確な考え方を提示してくれた。創像種 は原理原則に基づいてこの世界を想像され たが、それは共に喜びたいからであった。 1つ1つの法則の背後には自然界の美に よって人間を喜ばせたいという創造種の 愛情がある。神の中では法則と情緒とは 矛盾なく1つになっているというのが創像 原理の主張だった。この偉大な心理を皆に 伝えたいと感じ11月には進んで統一協会 の先輩と共に熱心に宇宮市の路で連動し 始めていた。一方、宗教活動に明けくれる 私の姿を見て同じ県出身の先輩の1人が 統一協会関連の批判的な情報を集めては 両親の元に送り続けた。両親は先輩が提供 する情報や豊協会に関する説明を信じ込み 、不安に駆られていった。その情報の ほとんどは統一協会に反対し、適を持つ 人々が流しているものであった。私が豊と 出会って1年ほどした1984年頃、両親
(05:47) は私を統一協会から脱開させるべくその 解決策を求めて統一原理に対する批判症を 数多く表している森山サ牧士の元を尋ねて いる。森山牧士は東京の小久保にある日本 イエスキリスト教団荻久保栄光協会の牧士 であった。そこで両親は反統一協会 グループの実質的リーダーで強心的回収 受け人の宮村孝氏とであった。宮村市は クリスチャンではないが、当時森山牧士と 協力して統一協会員の両親や親族らを自分 の主催する勉強会で教育して拉致監禁を 促し自ら監禁に赴いては奪会を共容すると いう反統一協会活動を活発に行っていた。 しばらくして両親は毎週土曜日に開かれて いたその勉強会に参加し、反立協会の立場 から統一協会に対する批判的教育を受けた 。宮村の反立協会の勉強会における親に
(06:52) 対する教育は実に巧妙だった。拉チ監禁で 脱開させた元信者を使って不刑の相談に 乗ったり、また元信者に統一原理を信じて 活動していた当時のことを宮村の移行に 添いながら統一協会は反社会的団体であり 子供たちは悲惨な生活をしていると親たち が信じ込むよう 証言させるのだ。元信者は拉致監禁で神秘 体験や内心の自由をとことん否定されてい たのでそれまでの進仰生活を意味のない 生活をした騙されたと思い込まれていた。 そのような勉強会で一方的情報と知識等を 与えられた親たちは子供が入っているのは 反社会的団体という生優しいところでは なく悪質な犯罪者集団だったとまで 思い込むようになる。やがて深刻になった 親たちは何が何でも息子娘たちを統一協会 から奪開させなければならないという心境 にまで追い込まれていくのである。母は すがりついてでもこのについて行こうと
(07:55) 思った。無視された時は本当にやる気が あるか試されていると思ったと後日私に 語っている。宮村市の勉強会で得た情報を 間に受けた母は宮村市への信仰とさえ 言えるような盲目的な追従をして家族全体 を巻き込み2年近くに及ぶ監禁生活へと 借り立てられた。1991年頃には母は私 の奪の手助けをするように親戚知人に声を かけ始めていた。 [音楽] 2拉致監禁 が良い習頭に拉致監禁の計画を進めている とは弓にも思わなかった私は拉致される 当日までいつものように東京豊島区の総合 病院愛病院で内会として勤務していた。 1992年6月13日、私は母に呼び出さ れて埼玉県わび市の実家に帰った。夜8時 頃だった。しばらくすると親戚20人近く が入ってきた。突然のことにド肝を抜かれ
(09:02) た。私は奥の部屋に座らされ、稲が周りを 取り囲んだ。その全員が私の方を険しい 顔つきでじっと見据えている。父が私に 行った。広統一協会という犯罪組織に 加わって活動することは親兄弟は始め親戚 として絶対に許せない。その件に関して みんなで話し合うため集まってもらった。 心きなく周りに邪魔されずに話し合う場所 を別に用意してある。そこでじっくり 話し合おうと。私は病院の職員と約束が あるのでその場所に行く前に電話させて 欲しいと言ったがなぜか皆口を揃えて絶対 ダめだと言った。私はやっとその場の 雰囲気の異常さに気づき話し合いには応じ たくないと言いその場から出て行こうとし た。その途端、親戚のうちの男性たちが私 に飛びかかり、家から担ぎ出し、外に止め てあったワゴ者に押し込んだ。これが教会 信者に対する拉致監禁と気づき、外に出さ れた際、大声で助けてくれ。殺されると
(10:09) 叫びながら逃げようと必死の抵抗を試みた が、他に無勢。脱出は無理だった。車の中 では私の両脇に座った父と弟が腕を しっかり掴んでいた。自動車が都内を走っ ていることだけは分かった。私は泣き ながら成果を歌い続けた。同じところを いく度もいく度も回った挙く、やっとある マンションの前で止まった。入り口には 見知らぬ若い男女10数人が待ち構えてい た。車から下ろされた私はこの男女に 取り囲まれ逃げ出す糸間もなく再び親戚ら の手によってそのマンションの一室まで 担ぎ込まれてしまった。部屋の中は何の 変哲もないマンションの一出一見普通の 様子だったが、親戚の人がドアをチェーン のようなもので固定し始めたのを見て監禁 されたことにようやく気がついた。 [音楽]

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