以下は、YouTube動画「拉致監禁被害者インタビュー / 吉村正(元・京大原研)× 福田ますみ(ノンフィクション作家)」の要約です。
1. 拉致監禁の実体験(吉村正氏)
- 拉致の瞬間(1987年)
京都の兄弟病院を出た際、前後から屈強な男数人に襲われ、空中に持ち上げられ車に押し込まれた。
車内で手錠をかけられ、そのまま中日本航空の小型機で札幌の丘珠空港へ移送。
監禁場所は「戸田アパート」3号室で、戸田光夫率いる「猶予する会」によって拉致監禁された。 - 監禁環境
窓は金属パイプで補強され、ドアは特殊ロックで内側から開錠できず、常時監視されていた。
精神的圧迫も強く、統一教会の活動歴について執拗な尋問を受け、教義への疑念を植え付けられた。 - 監禁時の状況
隣の部屋は「戸田事務所」で、元信者やマスコミが出入りし、組織的な監禁・説得活動の拠点となっていた。
2. 救出への道
- 内部告発者からの情報提供
偽装脱会して教会に戻った信者が吉村氏の監禁情報を教会に伝えた。
1987年9月17日、友人の伊勢谷氏が人身保護請求を裁判所に提出。 - 弁護士の訪問
9月26日、札幌の岩木弁護士(カトリック信者)が現場を訪問。
部屋の鉄格子や特殊ロックを確認し、吉村氏が今も信仰を持ち、解放を望んでいることを確認した。
3. 法的闘争と司法の壁
- 裁判の開始と相手側の構造
1987年10月13日に人身保護請求の準備審査会を実施。
反対派側は共産党系弁護士約122名が組織的に対応。
教会側は岩木弁護士と上野弁護士(カトリック信者)の2名のみ。 - 反対派の主張
裁判所に「子供が異常行動に陥る危険がある」と訴え、親の保護が必要だと主張。
裁判所はこの主張を認め、監禁の正当性を容認。 - 司法の問題点
吉村氏は「日本の司法は新宗教への理解がなく、信教の自由を守る意識が希薄」と指摘。
本来1週間以内に審議を開くべき人身保護請求が、1ヶ月以上も遅れた。
4. 監禁からの脱出
- 内部の混乱と脱出計画
監禁の長期化で内部が動揺し始める。
監視が緩んだタイミングで、ジョギングを口実に外出し、1987年11月10日に脱出成功。 - 反対派の主張
脱会屋側のゴル弁護士は「逃走」と表現したが、吉村氏は「違法な監禁から正当に逃れた」と反論。
法的に正当な監禁であれば、後日呼び戻せるが、その動きがなかったことが違法性の証拠と主張。
5. 監禁システムの実態
- 有料する会の活動
戸田アパートでは約120人が監禁され、その半数以上が女性だった。
大阪の暴力団を動員するケースもあり、監禁は組織的・計画的に実施されていた。 - 脱会屋ビジネスの構造
脱会カウンセラーのパスカル・ズービー(マインドコントロール研究所所長)が中心的役割を担った。
パスカル氏は元信者を使って新たな被害者を生み出し、その後「青春を返せ裁判」を起こさせるというループを構築。
これは「ビジネス」として機能しており、長期にわたって継続されてきた。
6. 社会的・法的課題
- 警察と司法の無力
拉致監禁は本来「絶対悪」であり、個人の身体的自由を奪う犯罪である。
しかし、信仰に絡む事案では警察が「家族問題」として介入を避ける傾向が強い。
人身保護請求の遅延や、法廷での被害者の証言制限など、司法の偏見が根深いことが浮き彫りとなった。 - マスコミの沈黙
福田ますみ氏は「4300人もの監禁被害があり、ビジネス化されているにもかかわらず、なぜメディアが取り上げないのか」と疑問を呈した。 - 反対派の動き
裁判で被害者が「強制的に改宗された」と証言させ、「統一教会は反社会的団体」とする流れが作られた。
これにより、社会的バッシングが激化し、さらに拉致監禁が黙認される悪循環に。
7. 事件後の展開
- 刑事告訴と謝罪
監禁からの脱出後、吉村氏は戸田光夫を刑事告訴。
戸田氏は1年後に検察官立ち会いのもと、監禁行為が「刑事事件に該当する」と認め、謝罪文を書いた。 - 反対派の継続的活動
北海道では、パスカル氏を中心に数百人の信者が改宗させられ、その中から「青春を返せ裁判」の原告が多数生み出された。
こうした構造的な信教の自由侵害が続いていることに強い懸念を示す。
8. 総括
- 拉致監禁は計画的かつ組織的に行われており、その実態は「信教の自由」の侵害という重大な人権問題である。
- 日本の司法は新宗教に対する偏見が強く、個人の信仰を守るための法的整備や意識改革が求められる。
- マスコミがこの問題を正しく報道せず、社会全体に誤った認識が広がっていることが、被害の継続を許している。
- 吉村氏は「信教の自由が守られる社会を実現するため、声を上げ続ける」と強調した。